古河公方・千葉氏・上総武田氏の史跡を訪ねる歴史散歩
     
     
   上総金田氏が勝見城主だった時代
 
 
上総国勝見城主だった金田左衛門太夫信吉・同正信親子が生きた時代について調べていくと、古河公方・下総千葉氏・庁南武田氏のことをもっと知らなければと感じました。
金田左衛門太夫正信の娘が千葉介昌胤の妻となり千葉介利胤・同胤富兄弟の母親になったこと。
大永年中(1532年~1554年)金田正信の弟金田正興は上総国を追われ三河国へ去り上総金田氏は終焉を迎える。
上総金田氏に起きた最も重要な事柄を知るために、下総千葉氏や庁南武田氏について多くの歴史的資料を調べてきました。
更に古河公方の史跡・庁南武田氏の史跡・下総千葉氏の史跡・上総武田氏の史跡を巡る歴史散歩にでました。
 
   
享徳3年(1454年)12月27日鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことにより、鎌倉公方と関東管領の対決が幕府を巻き込み、関東一円に拡大し享徳の乱と呼ばれる大乱となった。その後に起きた応仁の乱を経て戦国時代に突入していくのであった。
鎌倉公方足利成氏は拠点を古河に移し古河公方と呼ばれるようになる。
千葉宗家も古河公方派の下総千葉氏と幕府・関東管領派の武蔵千葉氏に分かれ争うようになる。
甲斐国守護職武田氏出身の武田信長は、古河公方足利成氏を重臣として支えていたが、古河公方の命を受け上総国に侵入し戦国大名になる。上総武田氏と呼ばれるが、上総国東部を支配する庁南武田氏と西部を支配する真里谷武田氏に分かれて統治するようになる。
古河公方を支持する下総千葉氏と上総武田氏が協力関係にあったことは明白である。
上総金田氏の居城だった勝見城は、庁南武田氏の居城庁南城の東に位置する重要な城である。
下総千葉氏と庁南武田氏の結びつきが強かったことが勝見城主になれた要因であり、それが壊れたときに上総金田氏終焉を迎えたと考えられる。

旗本金田氏の先祖である上総金田氏の人々が、本佐倉城や庁南城に出入りしていたことを思うと、その場所に行くことで何かを得られるような気がしました。
 
     
   
  
歴史散歩
 
   
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