歴史散歩(古河公方の史跡を訪ねる)
     
     
   JR古河駅から古河歴史博物館まで歩く
 
 
 古河駅は茨城県古河市本町にあるJR東北本線の駅である。「宇都宮線」の愛称区間に含まれており。首都圏北部と南部を結ぶ湘南新宿ライン(池袋・新宿・渋谷経由)や上野東京ライン(上野・東京経由)の停車駅である。
駅付近は商業施設が建ち並んでいるが、駅から古河歴史博物館に向かって歩くと、次第に趣のある町を感じることができる。
とりわけ観光案内施設が充実しているのには感動した。初めて歩く町なのに観光案内板を見ていけば目的地に到着できるのである。
道路には常夜灯を模した観光案内が設置されており、これを見て歩くだけでも楽しい。
肴町米銀(中央町3-1-43)にある古河藩使者取次所跡石碑を見るために道路から曲がると、整備された町並みが続く。


常夜灯を模した観光案内
 


 
 



古河藩使者取次所跡の石碑
 

肴町米銀の前の道をそのまま歩くと古河市立古河第一小学校(中央町3-11-1)に到着する。美しい校舎に驚かされるが、この学校が町並みを更に趣のあるものにしている。角に観光案内板が設置され、その指示に従って古河歴史博物館に向かうことができる。
古河歴史博物館に向かう前に、旧古河城乾門が残っている福法寺(中央町3-9-8)に立ち寄った。旧古河城は渡良瀬川の堤防工事のため、建物はおろか城の大半が壊されたので、乾門は古河城の遺構として貴重なものである。
 
 

古河第一小学校角の観光案内板


古河第一小学校を南東から見た


福法寺にある乾門


乾門のことを書いてある掲示板
 

古河歴史博物館(中央町3-10-56)は旧古河城の出城である諏訪曲輪の跡に建っている。旧古河城の主要な建物や構築物は渡良瀬川の堤防工事で壊されてしまい、諏訪曲輪と旧古河城の間にあった百間堀は埋め立てられ市街地になってしまった。
城の一部である観音寺曲輪にあった獅子が岩付近が古河城百間堀跡(桜町1-35)として保存されている。
古河歴史博物館の周囲には、古河文学館や鷹見泉石記念館など観光で訪れる施設が存在し、諏訪曲輪の堀や土塁は公園として綺麗に整備されている。古河城のことを知るには、古河歴史博物館に展示されている復元模型を見ることでしかできないのは残念な思いである。
 
 

公園として綺麗に整備されてた諏訪曲輪の堀


 綺麗に整備されてた諏訪曲輪の堀と土塁(右側)
 

 

 

 古河歴史博物館に展示されている古河城の模型。左側に位置する渡良瀬川の堤防工事で城の大半が壊された現在、古河城を知ることができる唯一の存在。右上の部分が出城である諏訪曲輪。諏訪曲輪と百間堀を挟んで左側が観音寺曲輪。諏訪曲輪と城(桜町曲輪)を結んでいるのが御成道。そこにあったのが御成門。観音寺曲輪の南側に突き出た土塁が獅子ヶ崎。御成門・御成道などの防衛に重要な役割を果たした重要拠点であった。
桜町曲輪の手前が三の丸・本丸となる。城の真ん中で目立つ建物が御三階櫓。この建物の奥が三の丸。右側が本丸。左側が二の丸。
城の右側に位置する百間堀・下堀は埋め立てられ市街地となり、城の主要部分である本丸・二の丸・三の丸は渡良瀬川の堤防工事のため壊され、川や堤防の一部となった。


 
 

 古河城百間堀跡
現在は道路に面しているのでイメージが湧かないが、当時は百間堀という堀に面していた。竹林に見える部分を反対側から見ると小高い土塁であったことが分かる。当時は獅子ヶ崎と呼ばれ、百間堀に突き出た土塁で古河城全体を見通して有事に備えることができる場所であった。

 


渡良瀬川の堤防にある古河城本丸跡へ
 
 今まで多くの城址を見てきたが堤防の上にある城跡は初めてである。
堤防を歩きながら渡良瀬川の広大な河川敷を見ながら、今日私たちの生活が大規模な治水対策によって守られているんだなと感じながら歩きました。そして、古河城本丸跡の石碑と掲示板によって、ここに古河城の本丸や二の丸・三の丸があったことを確認できました。
松尾芭蕉が平泉の高館にのぼってあたりを見渡し読んだ一句。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」が頭に浮かびました。
享徳の乱をおこした古河公方足利成氏の居城だった古河城を訪ねることが今回の目的だったのですが、城趾には石碑と掲示板があるのみ。
禅僧だったら何か悟りが開けそうな気分になりました。


渡良瀬川の堤防
 


 渡良瀬川


古河城本丸があった場所が現在堤防になってしまった
 


古河城本丸跡の石碑
 


古河城本丸跡の掲示板
 

古河公方の館跡がある古河総合公園へ
 
 渡良瀬川の堤防の上にある古河城の本丸跡の石碑を見て、古河総合公園にある足利成氏の古河公方館跡を見なくてはという思いが強くなりました。
古河公方をより知るために古河を訪ねたのですが、古河藩主土井利位やその家老鷹見泉石については多くの情報を得られましたが、古河公方足利成氏についての情報の少なさに驚きました。


 


古河歴史博物館の向かい側にある鷹見泉石記念館
 

今回古河公方の史跡を訪ねようと思ったのは、上総金田氏のことを調べていると古河公方がおこした享徳の乱が大きな影響をしていることに気づいたからです。
上総金田氏が仕えていた千葉宗家が古河公方派と幕府・関東管領派に争うことになる。幕府・関東管領派の千葉介胤直・胤宣父子が古河公方派の馬加康胤・原胤房に攻められ自害。馬加康胤は幕府から派遣された東常縁に攻められ自害。その後、古河公方派の本佐倉城を拠点とする下総千葉氏と幕府・関東管領派の武蔵千葉氏に分かれ争うようになる。
更にその後、古河公方家が足利高基と足利義明の兄弟間で争いが起き、足利高基を支持する下総千葉氏・庁南武田氏と足利義明を支持する安房里見氏・真里谷武田氏の争いに発展する。
足利義明は千葉氏の一族原友幸が守る小弓城を攻略、小弓公方と称し兄の古河公方に対抗できるまで勢力を確保する。
この争いに巻き込まれ、金田信吉・金田正信と二代に渡って上総国勝見城の城主だった上総金田氏は滅亡する。
金田正信の弟金田正興は、関東から追放され三河国一色村に逃れ、その後松平氏(後の徳川氏)に仕えるようになる。
この時代を知るためには、もっと古河公方について知ろうと思い古河を訪ねたのですが・・・・・。
古河総合公園は広大で美しい公園でした。古河公方館跡は石碑が建っているだけで、どのような館だったかも不明です。
もしかしたら、古河公方足利成氏は今日の日本人に次のようなことを伝えているのかもしれません。
争いからは何も残らない。すべてが空しいだけだ。
 



享徳4年(1455年)鎌倉から古河に拠点を移した足利成氏は、この場所に居館を構えた。その後、長禄元年(1457年)に修復された古河城に移った。。

 


古河公方館跡の石碑
 
古河総合公園の風景 
園内には池や起伏があり、多くの花木が植えられて1年を通じて楽しめるようにできている・


 


 
 

 


 
   

 
   
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