歴史散歩(武蔵千葉氏の史跡を訪ねる)
     
     
   武蔵千葉氏の史跡を訪ねて(石浜城)  
   
   
武蔵千葉氏と石浜城

 
   享徳3年(1455年)に始まった享徳の乱は、その後に起きた応仁の乱とともに戦国時代につながる戦乱であった。
古河公方と関東管領上杉氏との対立は千葉宗家にも及ぶことになる。千葉介胤直・胤宣父子が自害すると千葉県酒々井町にある本佐倉城を居城とする下総千葉氏と東京都台東区にある石浜城を居城とする武蔵千葉氏に分かれ対立し、それぞれ小田原北条氏の台頭によって呑み込まれていくことになりました。
今日の城北地域に100年に及び存在したにも関わらず、地元の住民の大半がその存在すらも知らない武蔵千葉氏の史跡を訪ねることで、少しでも武蔵千葉氏のことを知ることができればと思いました。
石浜城があった場所は、南北朝の争乱で足利尊氏が関東での南朝軍に最終的勝利をする拠点となった輝かしい場所でもありました。
当時の千葉介氏胤は足利尊氏の勝利に大きく貢献をして、念願の上総国守護職に補任されたのでした。(但し敵方だった上杉氏が復権すると上総国守護職を失うことになることになる)
1352年新田義貞の遺児新田義興が上野国で蜂起をして鎌倉を占拠するなど各地で南朝軍が優勢な戦いをしていました。
南朝軍に反撃を開始した足利尊氏率いる幕府軍は、新田義興軍と人見原(府中市)金井原(小金井市)で激突するが、幕府軍は石浜まで撤退し勢力の回復を図らねばならなかった。
その後、幕府軍は南朝軍を小手指原の戦い・笛吹峠の戦いで破り、関東で幕府軍が南朝軍に対して最終的な勝利を確定したのであった。
このように、武蔵千葉氏の居城石浜城は由緒ある場所なのですが、今日地名も残っておらず。
 
     
 
 石浜神社
 
   石浜城を知るには、石浜神社に行けば何か手がかりが見つかるのではと考えました。
石浜神社は荒川区南千住3丁目28番にあり、隅田川にスーパー堤防が出来上がり、川の向こうに東京スカイツリーを見渡せることで素晴らしい景観になっていました。
昭和の頃は汐入(現在の南千住8丁目)にカネボウやニチボー(現在のユニチカ)の工場が建ち、隅田川の水質は悪く、南千住駅から浅草まで都電が走っていて、途中の山谷は日雇い労働者の街だったことを思い出しました。
汐入方面は白鬚西地区市街地再開発事業で高層住宅や公園が整備され素晴らしい町並みとなり、スーパー堤防から見る景観には驚かされます。
かって日雇い労働者の街だった山谷地区も、簡易宿泊所が外国人旅行者相手の宿泊施設となった為、昔の面影はなくなってしまいました。
町並みの変貌に驚いてばかりいないで、本来の目的である石浜神社に訪ねることにしました。
 
   
石浜神社は聖武天皇の頃にこの地に鎮座した由緒ある神社です。隅田川の川岸にあった為、堤防工事のたびに移転。今の社殿はスーパー堤防建設工事のために移転することになり、荒川区が東京ガスから用地を買収し用意した土地に建立されたとのことです。
石浜城についての情報を得ることはできず、古地図などと照合しても石浜神社より北の地域には、石浜城はなかったことを確認しました。








石浜神社
 
 

石浜神社前のスーパー堤防から見た隅田川と汐入方面

 
   
橋場・清川・今戸を歩く
 
   石浜神社から明治通りを渡って、台東区内に入り石浜城趾の痕跡を求めて歩くことにしました。
橋場2丁目22番にある平賀源内墓を訪問しました。平賀源内墓は総泉寺境内にあったのですが、総泉寺が関東大震災で羅災し昭和3年に板橋区小豆沢に移転したのに取り残されたのです。つまり、この場所はかって総泉寺があった場所なのです。
総泉寺は鎌倉時代の建仁元年(1201年)千葉介によって現在の台東区橋場に創建された寺なのです。その縁で武蔵千葉氏の菩提寺にもなりました。
更に街を歩いていると、町会の掲示板に石浜三丁目町会や表札に浅草石浜町の文字があったのです。つまり今日の住居表示になる前に、浅草石浜町は存在していたのです。そして清川1丁目14番には石浜小学校と区立石浜公園がありました。
石浜城は今日の台東区橋場・清川・今戸の範囲内のどこかに存在したことは確かなようです。
 
   


平賀源内墓(武蔵千葉氏の菩提寺総泉寺があった場所)


石浜三丁目町会の掲示板


石浜公園

石浜小学校

そして、石浜城があった可能性のある待乳山聖天にむかいました。待乳山聖天はこの地域で唯一の小山ですが、武蔵千葉氏につながる伝承は一切ありませんでした。しかし、途中にあった今戸神社で有力な情報を得ることができました。
今戸神社は平安時代に創建され、今戸八幡宮として永く人々の信仰を集めてきました。
昭和12年に近くにあった白山神社を併合し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀することになったので今戸神社と称することになったと掲示板に書かれていました。今戸の白山神社は嘉吉元年(1441年)千葉介胤直が加賀の白山比咩神社の御祭神である伊弉諾尊・伊弉冉尊を自分の城内に勧請したことで創建されたとのことである。
つまり、今戸神社に併合された白山神社があった場所が石浜城の城内だったということである。
そして、古河公方派と幕府派に分かれて千葉氏同士で争う前に、石浜城は千葉宗家が城主であったという事実が判明した。
武蔵千葉氏は関東管領上杉氏から石浜城を任されたのでなく、元々石浜城は千葉宗家が城主であった可能性が高い。
今戸にあった白山神社を求めて古地図から石浜城があった場所を探すことにする。


今戸神社 台東区今戸1-5-22


待乳山聖天 台東区浅草7-4-1


 
   
古地図から石浜城を探す
 
   石浜神社から今戸神社を歩くことによって石浜城があった場所について手がかりが得られた。
①武蔵千葉氏の菩提寺である総泉寺が台東区橋場にあったこと。
②現在の橋場・清川にかって浅草石浜町という地名があったこと。
③今戸にあった白山神社は石浜城の城内にあったと推定できる。
それらを現在の橋場・清川・今戸に相当する地域の古地図から調べることにした。
 
   
昭和16年の地図

隅田川から橋場・石浜町・清川町・山谷・田中町となっている。現在の今戸は西側の一部が隣に吉野町に含まれていた。
吉野町は、戦後の住居表示改正で都電の走っていた通りの東側が今戸に含まれ、西側が新たにできた東浅草となった。
現在浅草の地名になっているが、待乳山聖天のあった場所が聖天町となっているのが興味深い。
石浜城内があったとされる白山神社は今戸二丁目の西北に位置し、面している道を北にむかうと石浜小学校がある。
当時吉野町と住居表示をされていた熱田神社・瑞泉寺が近くにあり(地図では記号だけで名前は省略されている)、その場所から現在の今戸2丁目11番に白山神社があったと推定できる。現在は普通の建物が建っており面影はない。
白山神社は昭和12年に今戸八幡に併合された。そのためこの地図では今戸神社と記載されているが、昭和16年当時建物が残っていたので、地図に白山神社と表記されたのだろう。
この地図から、石浜城は石浜町の大部分と今戸・橋場の一部にまたがる地域にあったと考えられる。
 

明治40年の地図

昭和16年の地図に比べて道路が整備されていないこととお寺の敷地が広いことが興味深い。
武蔵千葉氏の菩提寺瑞泉寺が地図の北側に位置している。
瑞泉寺が関東大震災で羅災し板橋区小豆沢に移転したことから、この地域が関東大震災で町並みが変貌したのだろう。
多くの寺院が東京郊外に移転し、残った寺院も敷地を借地として提供することで、地代で寺の復興が行うことができた。
震災後の復興工事で区画整理が行われ道路が整備されたことが上下の地図を比較することで知ることができた。
白山神社は昭和16年の地図と同じ場所に位置している。
しかし、近隣の熱田神社や瑞泉寺は上下の地図で大きく異なる。
瑞泉寺は広大な敷地を有しており、北の源壽院と南の安成寺に挟まれた位置にある。
熱田神社は離れた場所にあり、当時近隣にあった廣徳寺から推測すると、現在の住居表示だと台東区清川1丁目7番か18番あたりと考えられる。瑞泉寺は震災で敷地を縮小し、熱田神社は安成寺の跡地に引っ越してきたのであった。
関東大震災はいかに大きな影響を与えたか驚かされる。

改めて明治40年の知事を考察することにする。
隅田川から浅草橋場町・浅草玉姫町・浅草山谷町・浅草田中町となっている。
浅草今戸町と浅草吉野町の間に浅草亀岡町が存在した。この浅草亀岡町に白山神社が位置していた。
浅草石浜町や浅草清川町は明治40年以降に新たにできた町名であることがわかる。
浅草石浜町と命名すると時に、地元に伝承がって石浜という名にこだわりがあったからであろう。
 

江戸時代の切絵図

江戸時代の切絵図は近代の地図に比べ大まかなもので参考資料として考えたい。
明治維新後の廃仏毀釈で多くの寺や寺宝が失われたことを考えると、維新後もこの地図にあった寺院が無事であったかどうかと思われる。
白山神社についても切絵図では省略されたのか、神仏習合で切絵図に書かれているどこかの寺院で祀らていたのか定かでない。
前期の熱田神社は熱田明神とはっきり書かれているが、今戸八幡は「八幡 松林院」と書かれているのも神仏習合によるものである。

この切絵図から得られることは次のような事柄である。
①千葉氏の菩提寺で会った総泉寺が江戸時代になっても曹洞宗の有力な寺院として存在していた。
②総泉寺の北東の隅田川河岸に真崎イナリと表示されているのが上記の石浜神社のことである。石浜神社は田畑に囲まれており、神社から北の汐入まで農村地帯が続いていた。
③総泉寺から東の橋場町に船渡場があった。都鳥の名所であった。花火の鍵屋があった。
④隅田川の川岸沿いに橋場町・今戸町として町人が暮らしていたが、今日の橋場・清川・今戸地域の大半は大きな寺院が占めていた。
江戸時代の城下町では意図的に寺町が作られたが、お城の防備のために作られたと考えられている。
武蔵千葉氏の石浜城趾を寺町にしたとしてもおかしくないのである。

 

まとめ

石浜城神社から今戸神社まで歩き、更に古地図を照合することで石浜城に対する自分の意見を持つことができた。
石浜城は鎌倉時代より千葉介が城主となってた特別な場所であった。
そのようなことも足利尊氏が新田義興軍に対して反撃の拠点としたのも、幕府軍の主力であった千葉介氏胤が城主であったので物資や兵員を調達するのに役だったのではないだろうか。
享徳の乱で千葉宗家が分裂して武蔵国で千葉介と称することができたのは、そのような事情があったからである。
地元にもそのような伝承があったので、町名に浅草石浜町とすることにこだわった。残炎ながら住居表示が改正され石浜町の名前が消えたのは残念なことである。
石浜城はかって浅草石浜町という地名だった場所とその周囲に存在したと考えたい。石浜城の遺構をを調査することは永久にできないと思うので、石浜城趾がどこだったかは永久の謎でありつづけるだろう。
石浜城があった場所は海抜1m~2mで隅田川に堤防ができる前は、まず水害を心配しなければならない土地であった。多くの中世の城が起伏のある山や丘陵に城を築いたのに石浜城は軍事的には疑問を感じる。
現代では近くに隅田川貨物駅があり物流に貢献している。
中世において物流に川の果たした役割は大きかったと思う。
もしかすると、物流の拠点として下総国守護職千葉氏にとって石浜城は武蔵国で唯一確保しなければならない重要拠点だったのかもしれない。

旧橋場不動院裏の住人様よりの情報 2021年7月20日

石濱城跡に関して参考になればとのことでご連絡いたします。 昭和30年ころの思い出ですが現在の橋場2丁目に隅田川に面して 「とかげ山」と呼ばれた高さ3m近い石垣に囲まれた小高い地域がありました。
近所の子供たちの遊び場になっておりましたので、古い町ですからまだ記憶に止めている老人は近くに住んでいると思います。
なお、旧石濱神社は現在の位置から南南東約100mほどの所に在りましたが、数十年前に移動し現在の位置になりました。

貴重な情報ありがとうございます
 
     
     
   
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