上総金田氏の歴史(家史そして生きた時代)
家史目次  
 

新着情報 2017年12月25日  第一章金田頼次とその時代が閲覧できるようになりました。 クリック
2018年2月3日  第二章鎌倉時代の上総金田氏が閲覧できるようになりました。
   2018年3月7日  第三章鎌倉幕府の滅亡と南北朝動乱が閲覧できるようになりました。
  2018年7月27日  古河公方・千葉氏・上総武田氏の史蹟を訪ねる歴史散歩 OPEN  

三河金田氏と上総金田氏


旗本金田氏は金田正興を祖とする三河金田氏の系譜を引いている。江戸時代に金田正勝家3000石・金田正明家3000石を中心に金田諸家が德川家に仕えたことにより、寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜の中に金田氏系譜として残っている。

金田正勝家の現当主金田正也氏によって、実父故金田近二氏が研究した資料(上記金田氏系譜以外にも金田諸家の伝わる系譜・先祖書・過去帳などの多くの資料を調査)を中心に金田諸家の協力を得て「旗本金田氏家史研究」が出版されました。※
三河金田氏については、金田近二氏の研究によって多くのことが明文化されました。それでも、諸説あって今後の解明が待たれる事柄もあるのです。三河金田氏の祖金田正興は上総金田氏の系譜を引き、父は千葉県睦沢町にある勝見城主金田左衛門大夫信吉であります。
大永年中(1521年~1527年)に上総国から三河国に移り金田正興は三河松平氏に仕えることになる。江戸時代には金田諸家は上記記載のとおり旗本として徳川家に仕えたのでありました。次に上総金田氏について簡単に説明したいと思う。

上総金田氏は、平安時代の末期に鎌倉幕府創立の功労者上総広常の弟金田頼次を祖とする一族である。
上総広常が謀殺された時に金田頼次も拘束され間もなく病没したことになっている。その後広常の無実が判明し、頼次の嫡子康常に所領が返され御家人として復帰しました。
しかし、金田康常の嫡子金田成常の代に鎌倉幕府の有力御家人三浦氏が滅亡した宝治合戦に巻き込まれ所領を失う。金田成常の子胤泰が叔父鏑木胤定の養子となり、鏑木氏は鏑木城主として小田原の役まで千葉氏の重臣として続くのであった。鏑木氏から分かれ上総国蕪木城主となった蕪木氏の系譜を引く蕪木常信によって、文明年中(1469年~1487年)に金田姓に復することができました。その後、金田信吉の代には勝見城主となった。更にその子金田正信の代には第24代千葉介昌胤に娘を嫁がせ、第25代千葉介利胤及び第27代千葉介胤富の母となることができた。金田正信の弟が三河金田氏の祖金田正興なのであります。

上総金田氏の研究をして「金田家歴代記」上・下及び「金田頼次の系譜を追う」などの本を出版されたのが山内玄人氏なのであります。
山内玄人氏の母親は德川家康の異父弟松平康元の家老金田宗房の子孫であります。山内玄人氏は母方に伝わる「金田系図」などを調査し、更に「千葉大系図」「吾妻鏡」など多くの資料を研究し、上総金田氏について多くの成果をあげたのです。

旗本金田氏家史研究会では、上総金田氏の歴史(家史とその生きた時代)をホームページに載せることに致しました。
当然、山内玄人氏の著書「金田家歴代記」上・下及び「金田頼次の系譜を追う」に書かれている内容を中心とする予定でしたが、発刊されてから10年以上の歳月がたち、インターネットを通じて自治体や図書館によるデジタル図書などを閲覧可能になるなど多くの情報を得ることができるようになったので、それらから新たなる情報を得て「上総金田氏の歴史」を作成いたしました。
第一章から第八章までの文章は出来ているのですが、ホームページで閲覧するのに技術的な課題と内容の再検討に時間がかかる次第です。
上総金田氏を研究するためには、上総金田氏歴代(蕪木氏を含む)が生きた時代について詳しく調べる必要がありました。その結果、金田姓に復するのに戦国大名上総武田氏が重要な役割をしたことが判明しました。又上総金田氏が滅亡し金田正興が三河に移った原因が安房里見氏の上総進出によるものという結論に達しました。
これらをホームページで閲覧できるようになるまでかなりの時間を要すると思われますが、何卒よろしくお願いいたします。

※現在は旗本金田氏家史研究会のホームページが開設されデジタル化された「旗本金田氏家史研究」を誰でもが閲覧できるようになっている。





  家史目次

 
 第一章  金田頼次とその時代
 ページへ進む
  金田頼次について父祖・兄弟・源氏との関係など記載。兄上総広常について吾妻鏡の記述を検証する。
     
   
  第二章   鎌倉時代の上総金田氏 ページへ進む
  
金田頼次の嫡子金田康常について、千葉宗家との関係を検証する。その子金田成常は宝治合戦に巻き込まれ所領   を失って、成常の嫡子胤泰が母方の鏑木胤定の養子になる。鏑木氏が原氏・木内氏・円城寺氏とともに千葉四天王と呼   ばれ、千葉宗家のなかで重要な家柄となれたのは鏑木胤泰の母方の祖父白井胤時の存在があったからであった。
   
   第三章   鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱 
  
鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まる。しかし、建武の新政は2年で破綻し後醍醐天皇と足利尊氏の対立が南北朝の動乱となり、室町幕府内の対立が観応の擾乱(じょうらん)へと日本中で争いが続くのであった。千葉宗家がいかに困難な時代を乗り切ったか検証する。蕪木氏出身で円城寺氏の養子となった円城寺貞政の活躍により、千葉介氏胤の代に上総国守護に補任されたことを特記事項として記述している。
   
   第四章   関東の争乱
  
千葉宗家の衰退が始まるきっかけとなった上杉禅秀の乱、鎌倉公方足利持氏が自害した永享の乱などを記載。
   
   第五章   古河公方と享徳の乱
   古河公方と関東管領上杉氏の対立、下総千葉氏と武蔵千葉氏の対立など享徳の乱前後の出来事を記載。
   
  第六章   上総武田氏戦国大名へ
   甲斐武田氏出身の武田信長が上総国を支配する戦国大名になったことを記載。
 
    第七章   庁南武田氏と上総金田氏
   金田姓を復活し勝見城主となった詳細を記載。
   
   第八章 上総金田氏の終焉
     後の小弓公方足利義明を支援した真里谷武田氏・安房里見氏による庁南城・小弓城攻撃。この戦いで金田正信が戦死又は自害。弟の金田正興は関東から追放され、三河に移る。上総金田氏は終焉を迎える。
   


   
上総金田氏を語るには、前期・中期・後期に区分して語るのが理解しやすい。
●上総広常の弟金田頼次から宝治合戦で金田成常が所領を失うまでを前期。
●金田成常の子胤泰が鏑木氏の養子になり、胤泰の子常泰が蕪木城を居城として蕪木氏を名乗った期間を中期。
●文明年中に蕪木常信が金田姓に復帰し、大永年中に金田正興が三河に移り三河金田氏になるまでを後期。


上総金田氏前期では、兄上総広常の真実に迫りました。

☆上総金田氏中期では、鎌倉時代の終わり・南北朝時代・室町時代における東国の争乱と蕪木氏が仕えた千葉宗家の盛衰を記載しました。

☆上総金田氏後期では、戦国時代の始まりとの説もある享徳の乱が始まり、上総武田氏と上総金田氏との深い繋がりを中心に記載しました。


参考文献

金田近二著 金田正也編   「旗本金田氏家史研究」

山内玄人著         「金田家歴代記上・下」「金田頼次の系譜を追う」

神奈川歴史研究会著     「さがみの風」

福田豊彦著         「千葉常胤」

杉山一弥著         「室町幕府の東国政策」

金田諸家系図・寛政重修諸家譜千葉大系図・保元物語・平治物語

インターネット上で公開されているデジタル資料
吾妻鏡を読む、源平盛衰記、玉葉、神代本千葉系図、上総武田氏系図、里見系図その他


 
戻る