上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   


 
 第一章  金田頼次とその時代 その1  next ❶     

第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章

  金田頼次の父祖・兄弟について記載。
金田頼次は桓武平氏の(一般に)上総氏と呼ばれる一族の出身で、兄が上総広常・義父が三浦義明ということから、源頼朝が挙兵時に大いに役立ったはずなのに衣笠城の戦いに名前が残るだけであった。それは上総広常が源頼朝に謀殺されたことが影響していると考えられる。
上総広常が保元の乱・平治の乱で源義朝配下の武将として活躍し、琵琶湖西岸の堅田の浦にて別れた時に少年だった源頼朝が挙兵をしたことを喜び、鎌倉幕府創立の最大の功労者となった。しかし、意見の対立から上総広常が邪魔になった源頼朝によって謀殺され、その一族も所領を失い幽閉された。その後、一族は許されたとなってるが、多くの所領は失われたのであった。
上総広常ににとって悲劇なのは謀殺されたことでなく、源頼朝を偉大な武士の棟梁とするため、上総広常に関する歴史的事実が書き換えられたり、削除されたことであった。ひどいのは吾妻鏡で、上総広常が12月に殺された寿永2年(1183年)にあった出来事1年分を抹消したのだ。
これにより、上総広常の人物像は歪められてしまった。このことは金田頼次にも及んだことは確信できる。
金田頼次の子孫は、金田頼次が幽閉され無念の死を遂げたことを知っている千葉常胤によって生き残ることができた。その後、千葉宗家とともに歩んだことで千葉大系図に記録が残り、今日子孫である我々が先祖のことを知ることができるのである。
第一章では、房総平氏・源頼朝の挙兵・上総広常などについて詳しく述べたい。


桓武天皇 -5代略- 平忠常 -4代略- 平常澄 上総広常    
   
金田頼次 金田康常  ―  金田成常(千葉大系図では盛常)
   
 
 
(1)上総氏と千葉氏
  桓武天皇の曾孫平高望が上総介として赴任後、その子孫は関東の在庁官人や領主として発展していった。高望の子平良文の子孫は坂東八平氏と呼ばれた。その中で上総氏・千葉氏は平忠常を祖とする房総平氏と呼ばれる有力な豪族であった。上総金田氏初代頼次は房総平氏出身で、一般的には上総広常の弟として紹介されることが多い。
 
上総広常は源頼朝挙兵時の功労者であったにも拘わらず謀反の罪で謀殺され、その一族は所領を没収され千葉氏などに預けられたのであった。金田頼次は千葉常胤に預けられて間もなく病没した。その後、上総広常の無実が証明され頼常の子金田康常は一族とともに所領を戻され源頼朝に仕えることができた。しかし、上総広常に係わる重要な歴史的事実が吾妻鏡などの公的文書から意図的に削除されたり歪曲した記述となったのである。このことは、千葉大系図や寛政重修諸家譜の金田系譜にも影響し、上総広常・金田頼次の父や祖父が事実と違った系図になってしまった。
上総広常が謀殺されてから、房総平氏は千葉常胤が宗家となり広常の一族も従った。千葉氏を嫡流とする系図を作成するため、実際には存在しない常明・常隆という架空の名前が広常・頼次兄弟の祖父・父となったのである。このことは兄弟にまで及んだ。
金田頼次のことに入る前に、金田頼次の父平常澄にいたる房総平氏について歴史的資料を検証することにする。

 房総平氏の祖である平忠常は下総・上総両国に地盤を持つ在庁官人で上総介と千葉大系図には記されている。
「今昔物語」にも下総・上総を思うままに支配していたと記されており、その勢力はかなり強かったと思われる。
長元元年(1028年)から3年に及ぶ平忠常の乱をおこすが、追討使に源頼信が任じられると降伏し京都に向かう途中病没した。平忠常の子らは許され下総・上総両国に強い地盤を維持することができた。

忠常 ― 常将 ― 常長の三代は房総平氏として千葉氏・上総氏ともに共通している。

千葉大系図では平常長から千葉常兼が家督を譲り受け房総平氏嫡流となったと記載。その後、常重・常胤と続く。
上総氏については常重の弟常家・常明・常隆・広常と続くと記載されている。 → 千葉大系図(千葉氏と上総氏)の系図を参照のこと。

上総広常は多くの資料から千葉常胤と同じ世代と考えられ、千葉大系図(千葉氏と上総氏)の上総氏の記載事項には矛盾点が多いのである。
Wikipediaに記載されている‘’上総氏‘’を読むと、平常長から平常家が家督を譲り受け、平常家に子がなかったので平常家の弟平常晴に家督を譲ったと書かれている。
  常晴 ― 常澄 ― 上総広常となり年代も合致し矛盾点も解消する。
これを裏付ける資料として尊卑文脈にもとづく系図を参照。 → 尊卑文脈(千葉氏と上総氏)
忠常が忠恒となるなど名前の漢字が違っていたり、常晴のことを常時と記載されてる為注意して読む必要があるが、尊卑文脈は客観的資料として尊重できる。更に神代本千葉系図(九州千葉氏に伝来された系譜)で上総広常に関するところだけ見れば、常晴 ― 常澄 ― 上総広常と記載されている。
以上のことから上総広常・金田頼次の祖父は平常晴、父は平常澄と断定したい。
千葉大系図では



上総広常の父常澄・祖父常晴が別家のように書かれている。平常家は平常長の長子で常長から家督を受け継いだ。常家は弟常晴に家督を譲った。平常明・平常隆は実際にはいない人物。上総広常は平常澄の子にあたる。佐賀常範も実際にはいない人物の可能性あり。


名前の漢字が違っていたり、平常家が省略されているなどの問題はあるが、千葉大系図のように意図的に行われたものでなく、それらを訂正すれば正確な系図と言える。


平常長から平常澄にいたる経緯を整理すると下記のようになる。
①平常長からその長子である平常家が家督を譲り受けた。
②平常家に子がなかったので弟平常晴に家督を譲った。(常家と常晴兄弟の間に千葉常兼がいた。)
③平常晴は実の子である平常澄との親子関係が悪かったため、兄千葉常兼の子千葉常重を養子として房総平氏所領の中で最大の荘園相馬御厨(千葉常重が相馬郡を譲り受けてその後伊勢神宮に寄進した為、神宮の荘園となった為御厨と称した)を譲ったのである。
このことにより、房総平氏の嫡流は平常澄でなく千葉常重に代わった可能性が高い。
その後のことは、次節相馬御厨と源義朝にて詳しく述べたい。

今まで千葉大系図について金田頼次の父祖についての疑問点を挙げて検証してきた。
実は千葉大系図において金田頼次は「その居館上総国長柄郡金田郷にあり」と記載されていることにも疑問を感じている。
上総国長柄郡金田郷とは現在の千葉県長生郡長生村金田のことである。
寛政重修諸家譜でも金田頼次が金田郷に住んだことから金田と号すようになったと書かれている。
しかし、金田郷は現在の千葉県長生郡長生村金田とほぼ同じ広さで、上総広常の所領であった一宮荘の狭い地域でしかなかったのである。
房総平氏の多くは、印西荘・匝瑳荘・埴生荘・臼井荘・木内荘など荘園などの行政区画名を一族の姓としている。
現在の木更津市にある小櫃川河口地域を当時金田保と呼ぶ行政区画であったことから、金田氏発祥の地は金田保と考えるのが妥当と思われる。
金田頼次が父平常澄から所領として金田保を譲られ、金田と称したと主張する歴史学者の意見もこれまでもあった。
それを裏付ける出来事として次節相馬御厨と源義朝にて述べたい。



(2)相馬御厨と源義朝
平忠常の乱以降、房総平氏と清和源氏との間には深い絆で結ばれた。
千葉大系図によると
①忠常の子平常将は前九年の役で永承6年(1051年)源頼義が陸奥守として赴任した時に軍功をあげた。
②平常長は康平5年中(1062年)まで戦われた前九年の役で、源頼義・源義家に従い戦功をあげた。
③平常長とその子千葉常兼・平常晴は、後三年の役で寛治元年(1087年)源義家に従い金沢柵に拠った清原家衡・武衡軍を攻め戦功をあげた。常兼・常晴の弟常仲はこの戦いで討ち死にした。
後三年の役が終了後、朝廷からこの戦いは義家の私戦として戦費や恩賞を拒否した。源義家は陸奥守だった時の受領功過定に合格できず、10年間にわたって新たな官職につくこともできなかった。この時の源義家を助けたのは大規模私田領主だった房総平氏だった可能性が高い。源義家の苦境を助けるだけの経済力を有する豪族としてまず浮かぶのは房総平氏なのである。
源義家の家督を継いだのは源為義であった。(源義家の次男源義親の子とも弟とも諸説あり)
当時の源氏は一族の争いなので出世競争では出遅れていた。
源為義は長男源義朝を東国に下向させ上総氏(以後千葉氏と区別するため房総平氏の平常澄の系統を上総氏と呼ぶ)の庇護のもとで成長した。
「上総の曹司」と呼ばれた源義朝は成人すると東国の武士団の棟梁としての地位を築いていった。
源義朝が関係した荘園をあげると、安房の「丸御厨」・下総の「相馬御厨」・相模の「大庭御厨」・武蔵の「大河土御厨」などである。
この中でも房総平氏と関係の深い「相馬御厨」について述べたい。現在の千葉県我孫子市・柏市・流山市そして茨城県取手市・守谷市にまたがる荘園で伊勢神宮を領主としていたので相馬御厨と呼ばれた。

前節で千葉常重が相馬御厨を譲り受けたことを述べた。(相馬郡を譲り受ける前にも御厨だったかは不明)
大治5年(1130年)下総権介千葉常重は伊勢神宮に相馬郡を寄進し御厨とし、「地利の上分」と「土産の物」を神社に納めることと、千葉氏が代々「御厨の下司(荘官のこと)に」なること」と「地主として田畠の加地子をとる権利をもつこと」を寄進条件として認めさせた。
しかし、保延2年(1136年)千葉常重は相馬御厨を時の下総守藤原親通によって強引に奪われる事件がおこる。
康治2年(1143年)源義朝が平常澄の要請を受けて介入、相馬御厨の支配権を回復する。
平常澄にとって父から相続できなかった相馬御厨の一部を源義朝によって回復できた喜びは大きく、上総氏は源義朝配下となった。
源義朝の寄進状では御厨の下使は源義朝であるが、実際は源義朝の代理として平常澄の子相馬常清が荘官の立場であった。
千葉常重の家督を継いだ千葉常胤も源義朝に対抗して、御厨の下司を千葉常胤とする寄進状を伊勢神宮に提出した。
源義朝の寄進状と千葉常胤の寄進状は、御厨の地域においてかなりの部分が重複している為、両者は複雑な関係になってしまった。
上総氏と千葉氏は源義朝の配下になることで平和的共存をはかり、相馬御厨をめぐる複雑な関係を克服した可能性が高いと思われる。

更に源義朝配下の三浦義明の娘と平常澄の末子金田頼次の婚姻を結ぶことになる。
その後、源義朝は鎌倉を拠点として関東八平氏を中心に多くの豪族を従えることができた。
当時、上総氏が鎌倉へ向かう場合、現在の東京23区は入り江が深く入り込み利根川の河口もあり通行に不便であった。そのため船で東京湾を渡るのが一般的だった。それで、現在の木更津市小櫃川河口付近の金田保を所領として父平常澄から頼次は譲り受けたと考えられる。
康治2年(1143年)もしくはしばらくして金田頼次が三浦氏の婿になったとして、その年齢が20代ならば寿永212月(1184年)に上総広常の謀殺後に千葉常胤に預けられ金田頼次が病没した年齢は60代だったと推測できる。

金田頼次が金田保を所領とし三浦氏の娘婿となったことにより、源義朝配下の相模の豪族と上総・下総の豪族と繋ぐ重要な役割を果たしていたと考えられる。



下総国荘園郡郷図 小櫃川河口付近が金田保で海上交通の要の場所。源義朝が相模の三浦氏との婚姻をすすめたのも金田保の領主だったから。




(3)上総広常が家督を継いだことを検証
吾妻鏡では、上総広常は2万騎の大軍を率いて源頼朝のもとへ参陣した武将として有名である。
上総権介広常と呼ばれたことから、千葉氏と区別する為に広常の一族を上総氏と呼ぶが、当時も上総氏と呼ばれていたか疑わしい。
上総国一ノ宮玉前神社の顕彰碑において平廣常と記載されており、本当は平廣常と呼ぶのが正しいのかもしれない。
しかし、一般的通称である上総広常と呼ぶほうが特定しやすいので、以後上総広常と呼ぶことにする。
上総広常は平常澄の八男である。平常澄は長男平常景に上総氏の家督を譲った。しかし、次男常茂が常景を殺害してしまう。
このように、上総氏では一族間の争いがあり兄弟も多い状況で上総広常が家督を継ぐことになる。
上総広常が家督を継いだ時期も何故継ぐことができたかも不明なのである。
この謎を少しでも解明してみたい。

康治2年(1143年)源義朝が相馬御厨の支配権回復に動いた年。父平常澄が上総氏当主で弟金田頼次と三浦義明の娘との婚姻が成立したのもこの時期と考えられる。このことから、金田頼次の兄である上総広常の生まれた年を1120年頃と推測できる。千葉常胤が
1118年生まれなので、上総広常と千葉常胤は同じ年代と断定できる。
上総広常が源義朝配下の武将として参加した保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)の時期には上総氏当主であった。保元物語に上総国 介八郎広常、下総国 千葉介常胤と記載されており、上総広常が上総権介の官位を得ていたのである。
このようなことから、上総広常が上総氏当主になったのは30歳前後だった1150年頃だったのではないか。
上総広常には兄弟が多く当主として力量を発揮するには年齢・時間を要すると考えたからである。
千葉一族のホームページの平常澄に書かれている記載事項では、1161年まで平常澄が当主として存命したと記載されている。
しかし、平常澄が当主として平治の乱まで存命したという記録は何も残っていないのである。多分、佐竹氏が相馬御厨を伊勢神宮に寄進した寄進状に平常澄の名前が書かれていることを理由にしていると思われるが、下記の理由により当時既に存命していなかった平常澄の名前が書かれたのであった。
相馬御厨を佐竹氏が支配権を主張した時に、千葉常重から強引に奪った国守藤原親道の子親盛からの譲り状を支配権の正当な理由とし、「大謀反人前下野守義朝朝臣の年来の郎従など、王土にあるべからざるものなり」という論理で源義朝支配権を否定した。
源義朝が伊勢神宮に相馬御厨を寄進した寄進状には下司職は源義朝となっており、源義朝が平治の乱で敗死後に相馬御厨は謀反人の所領として国衙に収公されたのであった。
佐竹氏の寄進状に「常澄常胤等何故可成妨哉、是背法令、大非常之上、大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等 凡不可在王土者也」と平常澄の名前が書かれてるのは、源義朝が相馬御厨を御厨を寄進し下司職を得た時に、その代理として支配権を確立したのが平常澄だったことによるもの。(下司職源義朝その代理人平常澄という寄進状)
千葉常胤は源義朝とは別に伊勢神宮に相馬御厨を寄進した為、寄進状には下司職は千葉常胤となっていることを理由に陳弁し、相馬御厨を取り戻すため国守源有通の裁定を待っている状態だったのである。

一方、源義朝の寄進状は下司職が源義朝でその代理人が平常澄であったので、平治の乱で源義朝は敗死し平常澄も亡くなっていたので、平常澄から家督を受け継いでいる上総広常は何も出来なかったのである。
前述したが源義朝の寄進状と千葉常胤の寄進状は、相馬御厨の地域においてかなりの部分が重複している為、両者は複雑な関係になっていたのである。そのため、平治の乱で敗死した源義朝の巻き添えになったというのが千葉常胤の立場なのである。
最終的には時の権力者平氏と繫がりのある佐竹氏の寄進状が認められ、千葉常胤は相馬御厨の支配権を失った。
後に源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家軍を破った後、上総広常・千葉常胤が佐竹討伐を主張して佐竹氏を金砂城の戦いで破った。相馬御厨のことが大きな要因と考えられる。相馬御厨をめぐる上総氏と千葉氏の複雑な関係も、上総広常が謀反の罪で謀殺された後に千葉常胤が相馬御厨を支配することになり終了する。





(4)上総広常の兄弟を検証
上総広常の兄弟は、千葉大系図では架空の人物である常明の子として伊西常景・印東常茂・廳南常成・大椎維常、常隆の子として上総広常・天羽直胤・相馬常清・金田頼次に分けて記載されている。
現在では、
①千葉大系図に書かれている平常明・平常隆は架空の人物であること。
②千葉大系図に書かれている平常家は平常長の長子で、父から家督を受けた。
③平常家は弟平常晴を養子とし家督を譲った。
④平常晴は実子平常澄との親子関係が悪かったので、兄平常兼の子千葉常重を養子として相馬御厨を譲った。
ということが判明している。
千葉大系図では何らかの意図で事実と違う系図に書き換えられたと思われる。
まず考えられるのが、平常家を千葉常重の弟とすることで房総平氏の本流は千葉常重・千葉常胤と続く千葉氏であって、上総広常は傍流にすぎないことを系図を見た人に印象づけるのが目的ということである。
更に平常明・常隆を上総広常の系図に加えることで上総広常が若い武将という印象を与え、吾妻鏡に源頼朝に無礼な態度をとったことが書かれたことから、上総広常は乱暴者という歴史上の烙印を押されてしまった。
上総広常は上総権介八郎広常と呼ばれるように平常澄の八男という立場であり、長兄伊西常景が家督を継いだが次兄印東常茂によって殺害される一族間の争いが起きた為、一族の支持を得て家督を継いだのであった。それだけ人望があったと考えられる。源義朝配下の武将として保元の乱・平治の乱にも参加しており、千葉常胤と同年代と考えられる。九条兼実の日記「玉葉」に、源頼朝が挙兵し石橋山の戦いで敗れた後に上総広常が頼朝軍に加わったことが書かれており、上総広常が遅参したという吾妻鏡の記述は事実と相違しているのである。
源頼朝挙兵が成功した最大の功労者上総広常を源頼朝が殺害させた事件によって、源頼朝の評判が悪くなることを防ぐことなど理由はいろいろ考えられる。事件の真相は後述することによって、千葉大系図に書かれている上総広常の兄弟の系図を訂正することによって、上総広常の親族関係を明らかにしたのが、下に記載した2つの系図である。上が訂正前・下が訂正後である。





 
上記系図を訂正して作成したのが下記系図

 
 
   

 

千葉大系図を訂正し作成した系図であるが、八男とされる上総広常が五男となるなど問題点が残る。
そこで、他の系図も参考として千葉大系図と比較した。
千葉大系図と神代本千葉系図(九州千葉氏に伝来された系譜)と比較することにした。神代本千葉系図に次男として書かれている金田康常は明らかな誤記である。木内太郎常範は木内三郎常範のことと思われ、千葉宗家の重臣木内氏の祖である。千葉大系図では潤野四郎盛常とともに廳南常成の子として記載されている。天羽庄司秀常は直胤と同一人物と考えられている。佐是円阿は禅僧。当時佐是郡は上総広常の所領であった。広常の無実が証明され広常の遺領として広常の娘(甲斐源氏小笠原長清の妻)に与えられた。
臼井氏と匝瑳氏とは千葉常胤の叔父臼井常康・匝瑳常廣を初代とする一族。上総広常の兄弟臼井親常・匝瑳常成とどのような関係なのか不明である。

                             
神代※
本千葉系図
伊西新介
常景
金田小太夫
康常
印東次郎 
常茂
大椎五郎
維常
(潤野)
四郎盛常
十郎親胤 上総広常 埴生六郎
常益
木内太郎
常範
天羽庄司
秀常
匝瑳三郎  常成 相馬九郎
常清
時田
為常
佐是
円阿
 くましろ            親常                

Wikipediaに記載の上総広常の兄弟は、神代本千葉系図に基づくものと推定できる。
神代本千葉系図の誤記である金田康常は削除され、末子として金田頼次を記載。上総広常は八郎と保元物語に書かれているため、八男になるように並べ替えたと考えられる。

   長男                     末子 
  Wikipedia  伊西常景 印東 常茂 匝瑳 常成  佐是円阿 大椎維常   埴生常益  天羽秀常 上総広常  相馬常清  臼井親常  時田為常  金田頼次
                         
 群書系図部集  伊西新介
  常景
印東次郎 
 常茂
木内三郎 
  常範
 潤野四郎
  盛常
 大椎五郎
  維常
  天羽庄司
直胤
上総八郎
  広常
 相馬九郎
  常清
 臼井十郎
  親常
   金田小平太
   頼次
                         

群書系図部集は千葉大系図を基本として、尊卑文脈・神代本千葉系図などの資料を勘案して作成されたものと推定できる。木内三郎常範と潤野四郎盛常を廳南四郎常成と変更すると違和感がなくなる。群書系図部集を検証すると、臼井十郎親常について疑問が残る以外は上総氏の系図として最も信頼できる系図と考えられる。いずれにしても、上総広常の兄弟について正確なことを検証できないので、旗本金田氏家史研究会としては、千葉大系図を訂正して作成した上総廣常とその兄弟(上記系図)を上総広常の系図として活用することにする。


 
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