上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第五章  享徳の乱 その3 
    ❸ 
    

第一章 第二章 第三章 第四章 第六章 第七章 第八章

 
  千葉大系図には、文明年中(1469年~1487年)千葉氏が安西氏・里見氏と国境で戦いその武功により蕪木常信が金田姓に復することができたと記されている。金田系図にも同様のことが書かれてる。
寛政重修諸家譜には金田常信が岩井城に住み千葉氏の求めに応じて安西氏・里見氏と戦い武功があったとの記述になっている。金田系図にも岩井城に住んだことが書かれている。
いずれにしても、千葉大系図・寛政重修諸家譜・金田系図では金田常信が千葉氏の求めに応じて安西氏・里見氏と戦い武功があったことでは一致している。
金田常信の代に金田姓に復したことと安西氏・里見氏と戦うことになった経緯を知るためには、享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響をしたか、その結果金田常信の代に何が起きたかを調べねばならない。第五章では30年に及ぶ戦乱である享徳の乱を扱う。

 
蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                     
 
 
(5)千葉宗家内の古河公方派と幕府派の争い

康生元年(1455年)千葉宗家の重臣原胤房が同じ重臣の円城寺尚任と争い、馬加康胤とともに千葉宗家の千葉胤直・胤直父子を千田荘にて攻め滅ぼす争乱が起こる。勝った馬加康胤が千葉介を称したが幕府は認めず、東常縁を下総国に派遣し千葉胤直の甥千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤に対抗させる。
康生2年(1456年)1月千葉実胤・自胤兄弟と東常縁が籠った市川城を古河公方足利成氏の派遣した簗田持助の軍勢が攻めて落城。千葉実胤・自胤兄弟は武蔵国へ逃げ石浜城を居城とした。その後幕府から認められた千葉介(武蔵千葉氏)として千葉実胤・自胤兄弟は馬加康胤・岩橋輔胤・千葉孝胤と続く下総千葉氏と対立するのであった。』
というのが通説である。

しかし、(4)太田道灌と千葉孝胤で鎌倉大草子45・46を検証した結果、「太田道灌の軍勢が臼井城を陥落させ下総国・上総国の支配権を武蔵千葉氏が確保したと書かれているのは虚偽の事実である」という結論に達した。
千葉実胤・自胤兄弟が石浜城に逃れ幕府から千葉介として公認されても、経済的基盤である所領を幕府から新たに与えられたのではなく、千葉実胤が困窮したことは既に述べた。
応仁年鑑によれば、千葉氏は武蔵周辺に下総国市川荘1370余町・武蔵国葛西1200町・武蔵国石浜700町を有していた。上記市川城陥落によって下総国市川荘1370余町は失われ、葛西には上杉氏重臣の大石氏が領主として存在したことが影響し拠点とすることができなかった。
千葉実胤は武蔵国石浜の700町よる収入で総てを賄わなければならなかった。
千葉介として家老に木内宮内少輔胤信・円城寺因幡守宗胤・粟飯原右衛門志勝睦を任命し形式要件を満たしていても、武蔵千葉氏として活動するには石浜700町の収入では足りなかったのが、千葉実胤の困窮の原因である。このようなことから、市川城陥落後に下総国に残った東常縁も古河公方に支援された馬加康胤に対して立ち向かうだけの軍事力を有するための経済的基盤が無かったと考えられる。
以上のことから上記通説を見直す必要があるのではと考えた次第です。

 ●争乱の原因

千葉大系図の千葉胤直の欄では原・円城寺両家臣による私戦と記されている。
千葉宗家に起きた争乱は原氏・円城寺氏の争いが原因でなく、享徳の乱が起きたことに起因していることは明白である。
千葉胤直は幕府・上杉氏派に属し馬加康胤は古河公方派に属した。
享徳4年(1455年)3月20日古河公方派の原胤房が亥鼻城を攻め千葉胤直・胤宣父子は円城寺氏所領の千田荘に逃げ込んだ。
8月12日に多古城落城。8月14日志摩城落城。千葉胤直・胤宣父子が自害し争乱は終了した。
古河公方派と幕府派との争いを家臣による私戦と千葉大系図に偽って記されたのは何故なのか。
もう一度、この争乱を再検証することでこの争乱の真実を求めたいと思う。

 ●幕府派の千葉胤直による古河公方派の千葉胤将に対するクーデター発生までの経緯

千葉胤直は応永26年(1419年)に生まれ永享2年(1430年)に家督を継承した。永享の乱が起きた永享10年(1438年)において19歳の若者であった。
不運なことに永享11年(1439年)2月10日鎌倉永安寺に幽閉されていた鎌倉公方足利持氏を将軍足利義教の命により攻め自害に追い込んでしまう。
嘉吉元年(1441年)関東管領であった上杉憲実とともに出家し家督を庶兄である千葉胤将に譲る。22歳であった。Wikipediaでは千葉胤将は胤直の子と書かれているが千葉大系図に書かれている方が正しいと考えるのが妥当であろう。
千葉胤将は胤直より5歳年上で新しく鎌倉公方に就任した持氏の遺児足利成氏に仕え信頼を得ていた。

享徳3年(1454年)12月27日関東管領上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏によって暗殺され享徳の乱が発生する。
享徳4年(1455年)になり足利成氏と上杉氏の争いは本格化する。これにともない千葉宗家でも古河公方派と幕府派の争いが本格化する。
鎌倉大草子によると原胤房が挙兵したのが3月20日。千葉大系図によると千葉介胤将が急死したのは6月15日。このことから次のような推理が成立する。
享徳の乱が勃発し鎌倉公方足利成氏と幕府・上杉氏との争いが本格化すると、享徳4年(1455年)になるとまもなく幕府派の千葉胤直を中心にクーデターを起こし千葉介胤将を幽閉し実権を掌握してしまう。

  ●古河公方派の馬加康胤・原胤房が反撃を開始

3月20日小弓城にいた原胤房が千葉介胤将の救出をするため亥鼻城に奇襲をかける。
結局千葉介胤将を救出できず千葉胤直たちは千田荘に逃亡する。
その後馬加康胤が中心になった千葉介胤将救出を大義とする軍勢によって、千田荘にいる千葉胤直たちは圧倒されるようになる。
6月15日に千葉胤将が急死するともはや軍事衝突は避けられなくなる。千葉胤直が千葉胤将を謀殺し嫡子胤宣に千葉介を継承させたという疑いが強まったからである。
8月12日に多古城が落ち千葉胤宣が自害。8月14日志摩城が落ち千葉胤直と弟の胤賢が15日如来堂で自害。

 ●幕府による馬加康胤・原胤房に対する反撃

鎌倉大草子では「享徳4年7月26日に改元され康生元年となった頃、幕府から馬加康胤退治の命を受けた東常縁が浜春利を伴って下総国へ下向した。」と記されている。正確な下向日時は不明だが、千葉胤直とともに自害した弟の千葉賢胤の子である千葉実胤・自胤が市川城に逃げて無事なことを確認してからのことと思われる。
幕府から発行された①千葉実胤が千葉介を継承②反逆者馬加康胤追討の御内書を携えた東常縁が市川城に到着すると、国分・大須賀・相馬など千葉一族の有力者が幕府派の千葉介実胤に味方するようになった。
鎌倉大草子36に書かれていることが総て正しいかは不明だが、各地で馬加康胤・原胤房に対して千葉実胤・東常縁の軍が優勢に戦ったことは確かだ。

 ●古河公方足利成氏が簗田持助に市川城を攻め落とさせる

下総国で古河公方派の馬加康胤・原胤房が幕府派の千葉実胤・東常縁に対し劣勢になったことと、鎌倉大草子に書かれている浜春利が上総国東金に入ったことにより、古河公方足利成氏は危機的状況になってしまった。
上総国は上杉禅秀の乱まで犬懸上杉家の守護国だったのである。当時上杉禅秀の子上杉持房・教朝が幕府方として関東におり、上総守護に補任されることを期待していたはずなのである。関東管領を独占してきた山内上杉家にとって、台頭してきた扇谷上杉家とともに犬懸上杉家までが復活するのは避けねばならなかった。この結果上総国が空白地帯となっていた。
浜春利が上総国東金に入ったかは不明だが、幕府が上総国に対して何らかの工作を行った可能性は十分にある。下総国・上総国が幕府派に掌握されると古河公方足利成氏の勢力は事実上南関東から駆逐されることになる。

この危機を脱するため、古河公方足利成氏の重臣簗田持助が軍を率いて直接市川城を攻撃し、康生2年1月19日に市川城が落城した。千葉実胤・自胤が武蔵国石浜城に逃げ、東常縁のその後の活動は不明である。市川城を攻略後に下総国・上総国の大半が足利成氏に降参したと鎌倉大草子に書かれている。
このことから、梁田持助の市川城攻めに従軍した武田信長が密かに上総国に入部したと考えられる。その後、庁南武田氏・真里谷武田氏の祖となる人物だが、このことは第六章で詳しく述べたいと思う。


 ●馬加康胤討死の謎

千葉宗家の争乱について述べてきたが、この争いを、康生2年4月4日に古河公方足利成氏が三条実雅に宛てた書状の一部で説明したい。(佐藤博信著戦国遺文より抜粋)

この書状では、
「足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺し、分倍河原の戦いなどで上杉方を破ったことが書かれている。そして、幕府が関東管領上杉氏支持が決定されると、右の文章に書かれていますが、今川範忠が幕府方勢力を率いて相模国を制圧し、千葉介胤直や宇都宮等綱なども幕府方となってしまった。
このような古河公方足利成氏の窮地を救うため、馬加康胤(ここでは千葉陸奥入道常義)が挙兵し、多古城・志摩城にて決戦し、千葉介胤直・千葉賢胤兄弟と重臣円城寺尚任たちを討ち取った。千葉賢胤の子千葉実胤・自胤が市川城に籠もったが、古河公方を支持する勢力によって討伐され、二人は武蔵国石浜城に逃げた。。」
と書かれている。
千葉胤直が幕府方になったことで窮地に陥った古河公方を救うために、馬加康胤が挙兵したことを古河公方自身が文書で残しているのだ。更に最後に両総州を平定したと書かれているのは古河公方が誇張したことなのか、武田信長の上総国入部により上総国も平定したという意味も含まれているか意味深な文章である

古河公方の窮地を救った馬加康胤は、古河公方により千葉介として認められ、千葉大系図でもそのように記載されている。千学集抄では馬加康胤の代から千葉孝胤の代まで平山城(千葉市緑区平山町)を居城としていたと記されている。
康生2年(1456年)11月1日古河公方足利成氏の命を受け上総国八幡郷に出陣し、不慮の討死をしてしまう。

馬加康胤を討ち取った相手は誰なのだろうか?
東常縁ならば古河公方足利成氏の命を受けて出陣をする必要はない。東常縁以外の人物が率いる小規模な軍勢を撃退するように古河公方から命を受けたので、馬加康胤は平山城を出発し村田川を渡って八幡郷に出陣したのであろう。
上総国八幡郷といっても、下の地図で見ても分かるとおり下総国・上総国の境である村田川の南側の地域。平山城・小弓城からも近距離。
相手が侮れない兵力ならば小弓城に籠って迎え撃つ戦いをしたであろう。そのような相手でなかったので、多くの困難な戦いを経験してきた馬加康胤に油断が生じてしまった。

このようなことを考慮すると、武田信長が上総国にて敵対する勢力と戦ってきたことが原因としてあげられる。上総国で戦う武田信長の軍を支援するために馬加康胤の軍が村田川を渡り八幡郷に入ったところで、(武田信長の敵対勢力の)不意打ちを受け馬加康胤の軍は混乱し、乱戦の中で馬加康胤は討死したと考えられる。



 

 

 ●馬加康胤の継承者

康生2年(1456年)11月1日馬加康胤が八幡郷で討死した時点での関係者の年齢を検証する。

馬加康胤 応永7年(1400年)2月9日生57歳 千葉大系図に書かれている応安は応永との間違いと考えられる。

千葉胤持 永享8年(1436年)4月5日生21歳

岩橋輔胤 応永28年(1421年)6月7日生37歳

千葉孝胤 嘉吉3年(1443年)5月2日生14歳

ここで年齢を検証したのは馬加康胤が不慮の死を遂げた後、千葉介を継承した人たちの立場を明らかにしたいからである。
馬加康胤の家督を継承したのは嫡子千葉胤持であった。しかし、康生3年6月12日22歳の若さで亡くなる。
千学集抄では康生2年6月12日上総国八幡郷の戦いで討死。首は都へ送られたと書かれている。
馬加康胤が八幡郷の戦いで戦死した話と胤持が6月12日に亡くなった話が混ざった結果であろう。千葉胤持の死因は病死と考えるのが妥当と思う。

その後、岩橋輔胤が家督を継承する。
岩橋輔胤は謎多き人物である。

☆千葉大系図では馬加康胤の子、千葉胤持の庶兄と書かれている。
☆千学集抄では平山城を居城としてること。千葉氏胤の三男馬場重胤の孫と書かれている。

岩橋輔胤は文明3年(1471年)頃家督を千葉孝胤に譲り延徳4年(1492年)2月15日72歳で亡くなった。
所領である岩橋(酒々井町上岩橋・下岩橋)は千葉孝胤の代に平山城から移った本佐倉城に近く、岩橋輔胤が本佐倉城築城に大きな役割を果たしたことは間違いない。更に馬場重胤の所領(成田市馬場)と岩橋が比較的近い場所であることから、岩橋輔胤は馬場重胤の孫と考える方が妥当であろう。
馬場氏出身の岩橋輔胤が千葉胤持の家督を継承するのは不自然で、人物的にも馬加氏を乗っ取るような人物ではない。
このようなことから、岩橋輔胤が馬加康胤の娘婿だったのではと考えた。
上記の年齢を比較すると、千葉胤持の姉が岩橋輔胤に嫁ぎ千葉孝胤を生んだと考えてもおかしくない。千葉胤持が亡くなり馬加康胤の直系男子は絶えた。そこで馬加康胤の外孫にあたる千葉孝胤が継承することになった。千葉孝胤が15歳だったので、父の岩橋輔胤が後見人として千葉介の役割を果たしたと考えると岩橋輔胤の行動が納得がいく。
後見人として一族からも「岩橋殿」と呼ばれ信頼を得ることができた。岩橋輔胤が千葉介と称することが無かったのも説明できる。
成人した千葉孝胤は父岩橋輔胤が長生きしたこともあり、岩橋輔胤の助力を得て本佐倉城を居城とし下総国の支配権を確立することができた。
岩橋輔胤は千葉介として活動したわけではないが、その功績を称えるために千葉大系図に馬加康胤の庶子として書かれたのかもしれない。
 
 
 

       千葉胤直・馬加康胤・原胤房の系図
 

  ●原胤房は筆頭家老ではなかった。しかし・・・・・・。

千葉大系図千葉勝胤の欄に木内・鏑木・原・円城寺を四天王の家臣と表記されており、後に臼井城主として原氏が千葉宗家にせまる実力を持つようになることから筆頭家老という印象になったと考えられる。
円城寺氏は円城寺貞政以降重臣として重きをなしてきたが、原胤房の祖父原胤高は千葉介満胤の弟だったことから、原氏は家臣と言うよりは一族という扱いだったのではないか。原胤房を筆頭家老と呼ぶのは適さないと考える。
後に千葉宗家の家督を継承した岩橋輔胤は千葉介満胤の弟馬場重胤の孫とみられ、原胤房も一族として岩橋輔胤と同様な立場であった。
千葉大系図の千葉胤直の欄に原・円城寺両家臣による私戦と記されているので、重臣原胤房が同じ重臣円城寺氏と私的争いに千葉宗家が巻き込まれたというイメージが巧妙に作られたと断定できる。


一般的には原胤房を千葉介胤直・円城寺尚任たちを自害に追い込んだ反乱者として認識されている。

しかし、古河公方足利成氏を支持した千葉介胤将を隠居していた幕府派の千葉胤直がクーデターで権限を奪取し幽閉した為、原胤房が奇襲攻撃をかけ幽閉された千葉介胤将を救おうとした軍事行動だと既に述べた。原胤直には千葉介胤将救出という大義があり、馬加康胤を中心とする古河公方派に権力を戻すことを目的としていた。
馬加康胤・原胤房が大義のために戦った証拠が、鎌倉大草子34に書かれている。

 志摩城は原胤房が大将となって攻め、8月14日に落城した。千葉胤直たちは如来堂に移って、別当東覚院に籠もった。

 原胤房は寺を取り囲み、胤直に従っていた上﨟に、「介殿(千葉胤直については(古河公方足利)成氏公に対して不儀があって討手を遣わされたからには、上意計りがたく、どうにもなりません。若君胤宣公(千葉宣胤)は幼い時から御一緒におわさず、なんの不儀もおわしません。馬加殿が哀れに思し召していますので、なんとかしてお命を助け奉りましょう」と、言った。

 ところが、胤宣(千葉宣胤)が既に12日に御切腹されたとの知らせが来て、原胤房も涙を流した。

、鎌倉大草子34では、8月15日如来堂に総攻撃が開始され、千葉胤直・賢胤兄弟が自害し家来たちも追随して果てたことも書かれている。
古河公方派の千葉胤将救出を目的としていたが、6月15日に千葉介胤将が急死したことで軍事的衝突となってしまった。千葉宣胤が11歳ということから、千葉介胤将の後継者とすることも馬加康胤・原胤房が考えていたが、宣胤の自害でそれもかなえられなくなったことに涙したのだろう。

当時小弓城は原胤房の父原胤親が城主だったと考えられ、古河公方派の軍事的拠点だったと考えられる。
馬加康胤は小弓城に近い平山城を築城し居城とするが、幕府から馬加康胤追討の命令が発せられ東常縁が到着すると次第に劣勢になる。
岩橋輔胤と原胤房は、康生2年1月19日に古河公方足利成氏の派遣した軍が幕府派の籠る市川城を落城させるまで、劣勢な馬加康胤を支え続ける。
市川城落城後は、古河公方派が優位になり馬加康胤が千葉介として古河公方足利成氏から認められ、下総国の支配権を確立する。

原胤房のその後がはっきりしないが、馬加康胤・胤持親子の後継者となった岩橋輔胤・千葉孝胤親子を支える重要な役割を原氏が担ったのではないだろうか。
千葉氏の内紛で円城寺氏・木内氏など重臣の多くは幕府派と古河公方派に分かれたことが影響し次第に力を失った。
そのようなことから、千葉孝胤が千葉介を称するようになった頃に、原氏が筆頭家老となったと考えられる。

このように原胤房の功績が原氏を筆頭家老にさせたと書くことはできても、その詳細や経緯を述べることができないのが現状である。
下記に述べるように、小弓城主を原胤房の従兄弟原胤継が継承するなど、原氏の間で誰が本流なのか特定しにくい。
とりあえず、原胤房以降に原氏に起きたことを羅列することにする。

  • 享徳4年(1455年)3月20日原胤房が千葉胤直を攻めて段階では父・原胤親(小弓城主)、兄・原光胤、弟原胤平は健在であった。
  • 寛正7年(1466年)2月7日兄・原光胤死去。
  • 千葉大系図の文面だと光胤死去前に、原胤親は胤親の甥にあたる原胤継に小弓城主を継承したようなのだ。
  • 原胤房の弟胤平の子である原胤定は上総国に小西城(大網白里町小西)を築城する。小西城は平山城から東に位置し、東金方面に近い。
    鎌倉大草子に「浜春利が上総国東金に入った」と書かれていることから、何らかの敵対勢力が東金方面にいたと考えられる。
  • 原胤房の子のことが千葉大系図に書かれてないので、子供はいなかったと思われる。もしかすると、病気などの理由で若くして没していたのかもしれない。
  • 原胤継の子原友幸の代に、真里谷武田氏・里見氏に奉じられた足利義明の軍に小弓城は攻め落とされ原友幸は討死。原友幸と一緒に戦った原友胤・虎胤父子は甲斐国に追放される。原虎胤はは後に武田二十四将の一人になる。
    足利義明は小弓公方と呼ばれ房総地域に君臨するが、小田原北条氏との国府台合戦で討死。北条氏によって小弓城は回復し、小西城主である原胤定が小弓城主を務める。                                                                         
  • 原胤定は臼井城主にもなりその子孫は1522年に上杉謙信との臼井城の戦いに勝利する。
    不思議なことに、天正年中(1573年~1593年)になると、原胤定の子孫は臼井城主に専念し、原胤房の兄光胤の子孫である原胤家が小弓城主を継承することになる。原氏一族間では啀み合うことはなかったようなのだ。
鎌倉大草子・千葉大系図などで原胤房が注目されてしまったが、当時父原胤親や兄弟が健在であった。その後、原胤房の消息は不明になるが、兄弟や一族の子孫が活躍することになる。小田原北条氏が房総に支配権を確立した頃には、本佐倉城の千葉宗家に対して、臼井城の原氏は自立した立場になる。
このように原胤房の功績がその後の一族の発展に貢献したという印象だが、もしかすると、父原胤親が指揮のもと原胤房が千葉胤直を攻めたのかもしれない。原胤親の兄弟・子供たちが一致団結して原胤房に協力したので、奇襲作戦は成功し千葉胤直は千田荘に逃げたのではないだろうか。
馬加康胤・胤持父子そして岩橋輔胤・千葉孝胤父子と千葉宗家を継承していくが、原氏一族に対する絶対的な信頼は揺らぐことは無かった。
馬加康胤から千葉孝胤までの居城であった平山城を守る為に、原氏が城主の小弓城・小西城は重要な位置にある。そして千葉孝胤が本佐倉城に居城を移した後、太田道灌からの攻撃に対して臼井城の攻防戦がおき、臼井城の重要性が認識された。この結果原氏が臼井氏に代わって城主となる。
原氏が臼井城主になったことの正しさを、後の上杉謙信との戦いに勝ったことが証明した。
原胤房を逆臣としてみなす風潮があるが、享徳の乱後小田原の役までの135年間千葉宗家が存続するために原氏一族が果たした役割を再評価すべきではないだろうか。

 (6)時代に翻弄された人々

千葉氏の争乱を検証してきたが、「登場人物は戦国時代のような肉親間・主従間の醜い争いとは違うのでは」と感じざるを得ない。
もしも、永享の乱・享徳の乱が無かったらという思いが募る。

①千葉胤直
永享の乱に敗れ鎌倉永安寺に幽閉された鎌倉公方足利持氏の警備の任務を負う。関東管領上杉憲実は将軍足利義教に持氏助命の嘆願をする。
将軍足利義教は聞き入れず、持氏追討の命令を上杉憲実に発する。永享11年(1439年)2月10日上杉憲実から警備していた千葉胤直に命令が発せられ永安寺を攻め足利持氏を自害に追い込む。千葉胤直にとって人生を狂わせる大きな出来事であった。嘉吉元年(1441年)千葉胤直は家督を庶兄胤将に譲り、上杉憲実とともに出家することになる。千葉胤直は信仰心の厚い人物で出家して亡き足利持氏の冥福を祈るとともに、同じ年に加賀国白山比咩神社に参詣し、御祭神を武蔵国石浜城内に勧請し白山神社を建立した記録が残っている。
足利持氏の遺児足利成氏が鎌倉公方に就任すると、千葉胤直の人生に暗雲が立ちこめ始めた。

享徳3年(1454年)12月27日関東管領上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏によって暗殺される。上杉憲実の子上杉憲忠暗殺に身の危険を感じた千葉胤直は
クーデターを起こし実権を掌握する。しかし、古河公方を支持する叔父馬加康胤率いる軍勢によって攻め込まれ享徳4年(1455年)8月14日志摩城落城し自害した。享年36歳。

②千葉宣胤
千学集抄などでは千葉胤宣。享徳4年(1455年)8月12日多古城が落城し自害。享年11歳。
享徳の乱がなかったら千葉介としてそれなりの人生を送れたはずなのに何とも残念なことである。

③馬加康胤
千葉大系図にも書かれているが、千葉介が出陣した多くの戦で軍の指揮を執るなど重要な役割を果たしてきた。千葉胤直が出家・隠居すると、家督を継承した千葉胤直の庶兄千葉胤将を補佐し、鎌倉公方足利成氏からも信頼を得ていた。
享徳3年(1454年)12月27日12月27日関東管領上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏によって暗殺される事件が起き、千葉宗家の中に大きな動揺が起きる。
享徳4年(1455年)になり鎌倉公方足利成氏に反対する人々が隠居していた千葉胤直を説得しクーデターを起こし実権を掌握してしまったのだ。

足利成氏は一族の長老として重きをなしている馬加康胤に事態の打開を命じ、馬加康胤は行動を起こした。
馬加康胤は文部両道の人物で有能な人材を見いだす能力を持っていた。原胤房と岩橋輔胤は馬加康胤によって才能を見いだされた有能な人材である。
同年3月20日亥鼻城に拉致された千葉介胤将を救出するために原胤房が奇襲攻撃をかけた。
奇襲作戦は成功し亥鼻城は制圧されたが、千葉胤直たちは重臣円城寺尚任の所領千田荘に逃げ、千葉介胤将を救出することはできなかった。
千田荘の多古城・志摩城に籠った千葉胤直・宣胤親子、円城寺尚任らに対し、馬加康胤は千葉介胤将の解放と権限を戻すことを求めた。
馬加康胤たちに大義があり、多くの味方が集まった。暫くの間お互いにこれ以上の軍事的衝突を避けるために和解の交渉がすすめられた。
ところが6月15日千葉介胤将が急死する事態が発生する。死因は不明だが千葉胤直による謀殺との疑いがひろまり、両者の激突は避けられないものとなった。8月12日千葉宣胤・8月14日千葉胤直が自害し戦いは終結した。

しかし千葉介胤将を救出できなかった代償はあまりに大きかった。
幕府から馬加康胤討伐の御内書を携えた東常縁が市川城にいる千葉実胤・自胤兄弟のもとに到着すると、兄弟のもとに馳せ参じる者が相次ぐのであった。劣勢になった馬加康胤は亥鼻城を放棄し、新たに平山城を築城し移った。
馬加康胤の劣勢を知った古河公方足利成氏は重臣簗田持助率いる軍勢を派遣し、直接市川城を攻撃し康生2年(1456年)1月19日に市川城を落城させた。千葉実胤・自胤兄弟は武蔵国石浜城に逃げ、東常縁のその後の活動は不明である。
馬加康胤は古河公方足利成氏から千葉介として認められ、千葉宗家が有する下総国の所領を継承することができた。
この経済的基盤により平山城を更に整備するのであった。後に馬加康胤から千葉介を継承した岩橋輔胤・千葉孝胤親子は本佐倉城を築城することができたのも受け継いだ経済的基盤によるものである。
それに対し幕府から千葉介として認められた千葉実胤は、石浜城主となっても武蔵石浜700町の収入だけなので困窮したことは既に述べた。

馬加康胤は古河公方足利成氏を支持する立場から行動し、幕府・上杉氏を支持する千葉胤直らを打ち破り千葉宗家の経済的基盤を継承し千葉介として認められた。しかし、市川城の落城後9ヶ月余りで上総国八幡郷の戦いで不慮の死を遂げてしまう。
そのために千葉宗家を滅ぼした反乱者としてのレッテルが貼られ、更にその継承者である千葉孝胤が千葉介を称すると僭称とWikipediaでも書かれている。もっと長生きしていたらこのような誤解は発生しなかったろう。
馬加康胤は千葉介兼胤の弟であり千葉宗家を継承できる有資格者なのだ。千葉介は下総国の支配権を確保し、そのための経済的基盤と軍事力を有している千葉氏当主のことである。幕府から任命される必要は無い。馬加康胤も千葉孝胤も古河公方足利成氏から千葉介として認めらている。僭称と書かれるのは如何なものか。
いつか、馬加康胤や千葉孝胤に対する不当な評価が変わることを望む。

 
 

 
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