金田郷と勝見城を歩く 
     
   
 
  上総一ノ宮駅から勝見城まで歩く(後編

 
 
房総横断道路を茂原方面に向かって歩いて行くと八積駅入り口の交差点に着く。右折して八積駅入り口まで歩く道は金田郷だが特段金田氏につながる旧跡はない。左折して寺崎方面に歩いて勝見城に向かうことにする。勝見城までは一宮川が流れる田園の風景が続く。
 
   

八積駅入り口の交差点(右折八積駅・左折勝見城方面)

一宮川
 
   

学習院高等科教授だった故金田鬼一氏(1886年―1963年)が一宮町に居住したことにより、金田系図などの資料が提供されたことで地元でも金田郷と勝見城について理解が深まったと思われる。しかし、長生村役場が作成した金田村の沿革を調べた資料によると、「金田の起源はいつ頃から起こったものかわからない。」と書かれており、千葉大系図や金田系図などを参考に金田郷については、鎌倉時代の金田頼次と関連付けて書かれていた。
そのため、勝見城を含む城の周辺が昔は金田郷だったと間違った認識をして勝見城について書かれている本などがある。
しかし、八積駅入り口の交差点を左折すると長生村七井土であり、更に睦沢町に入ると睦沢町川島となり勝見城周辺は睦沢町寺崎となる。金田郷は、現在の長生村金田周辺の場所で、勝見城からは離れていたと認識するのが正しいようである。

 
   金田郷から勝見城まで歩いて行くと、遠方に勝見城を見ることが出来る。下の写真は真ん中の山が勝見城である。手前の川は一宮川。  
     
   

 
   勝見城に近づいてくると、睦沢町が勝見城跡をやすらぎの森として整備するのに設置された展望台があるので、遠方からでも特定することが出来る。  
     
   
勝見城址は睦沢町によってやすらぎの森として、キャンプなどを楽しめるように整備されている。駐車場からキャンプ広場に上がっていけるようになっている。更に山を登っていき尾根伝いを歩くと歓喜寺に到着する。駐車場から歓喜寺までが勝見城址なのである。途中にある観音広場に城の主要な建物が存在したと考えられている。観音広場の端に展望台が建っているが、勝見城の時代にも見張り台が存在したのではないか。想像するのも楽しい。
このように城址を楽しむことが出来るのも、睦沢町と地元の方々により城址を整備されてきたおかげと感謝したい。

 
   

勝見城に到着(やすらぎの森と表示されているので案内に従って駐車場から勝見城へ)
 
   
道路にやすらぎの森の表示がある
 
寺崎地区コミュニティーセンター横の道を入る
 
     
   
やすらぎの森駐車場
 
駐車場から登り口
 
 

やすらぎの森案内図
 
 
     
   
東福寺跡に設置されたやすらぎ広場(キャンプ場)
 
玄知の下横穴墓群の標柱
 
 
玄知の下横穴墓群が近くにある坂を上がっていき、その後は尾根伝いを歩いて行く。城址であることを知らなければ単なる山歩き。途中ベンチが設置され休むことが出来る。急な坂や階段には手摺の役割をするものが設置されている。
 
 
     
小さな祠がふたつ祀られている小曲輪
 
     
   
赤い橋
 
観音広場 現在では観音像が設置されている。
 
     
   
観音広場 勝見城では城の主要な建物が建っていたと考えられる。奥が展望台。
 
勝見城跡地展望台(勝見城があったころも見張り台があったと考えられる)
 
     
   
勝見城跡地展望台から見た金田郷方面
 
     
   
堀切にかかる吊り橋
 
尾根伝いを歩いて行くと勝見城曲輪の標柱がある(つり橋の手前)
 
     
   
歓喜寺方面の坂道を下ると寺の屋根が見えてくる
 
歓喜寺から勝見城跡への登り口
 
     
   
歓喜寺本堂
 
境内にはアジサイが多く植わっている
 
     
   
歓喜寺山門
 
歓喜寺入口には勝見城址の標柱が立ってる
 
 
 
 
  歓喜寺は、東光山無量院と号し、夷隅町萩原行願寺の客末寺での小本寺である。
伝えいうに人皇五十四代仁明天皇嘉祥二年(850)延暦寺座主円仁(慈覚大師)東国順化の途次上総に来り本納に仏堂を創立し本尊阿弥陀如来並びに観音勢至の両大士を安置す。
しこうして当山中興第一世栄海法印に至り堂宇全備するといえども数百年の星霜を経て第三十三代世宗順代享保九年(1724)九月十三日火災にかかり、往古の伽藍はことごとく灰燼となった。

時の住職再建を企て享保十三年(1728)現在の当宇を建立したものであります。

なお、当寺は御朱印地にて、慶安二年(1649)徳川家光以来累代の将軍から寺領十石の朱印状が下附され現在町重要文化財として残っている。

「境内案内より」 寺院神社巡り
 
   
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