金田郷と勝見城 
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   上総一ノ宮駅から勝見城まで歩く(前編
 
   
   上総一ノ宮駅  
   上総一ノ宮駅は千葉県長生郡一宮町一宮にあるJR外房線の駅である。九十九里浜観光の入口にあたり、駅と九十九里浜の間にはホテルなど観光施設が充実している。  
     
   
駅前の風景
 
   


 
   
駅近くの観光案内版
 
   


 
   玉前神社   
     
   上総国一ノ宮として称えられる玉依姫命を祭神とする由緒ある神社。詳細は玉前神社のホームページを見て頂きたい。
寿永2年(1183年)上総広常が謀反の疑いで謀殺されて、一族の者たちも所領を没収され蟄居謹慎となってしまった。しかし、翌年上総広常が玉前神社に奉納した甲冑一式の中から源頼朝の東国太平を祈願した願文が見つかり、謀反の嫌疑が晴れて一族の者たちの謹慎は解かれ所領も戻された。
しかし、その甲冑や願文は神社の社殿・文書・宝物とともに戦国時代の戦火で焼失したため、上総広常に係わる文書・宝物は現存していない。
現在の本殿や拝殿は貞享4年(1687)年に上棟したものであります。
上総広常に関する資料は、上記の願文の内容が記された石碑が「平廣常顕彰碑」として残っているのが唯一のものである。

 
     
神社入口の鳥居
  
石造りの鳥居
 
   

 
   
拝殿 内外を黒漆で塗っている。屋根は寛政12年(1800年)に銅板葺きとなった。拝殿の奥に本殿がある。
 
   

 
   
平廣常顕彰碑
   
   


 
   金田郷  
   上総国長柄郡金田郷は現在の千葉県長生郡長生村金田が該当する。
一宮町から長生村に道路沿いを歩いて行くと、家電量販店・大型スーパーがあり車を使用して暮らすのに便利な場所だと感じた。
しかし、道路から離れると写真のような田園風景となり、昔から水と気候に恵まれた豊かな地域だったと思われる。
今回の訪問は金田頼次の居館だったという説のある金蔵寺を訪問し、真偽を確かめたいという思いからであった。
金蔵寺近くの大宮南宮神社には神社の名前の横に上総国長柄郡金田村と記されており、ここが金田郷であることを実感した。
金蔵寺を訪問し御住職に確認したところ、金蔵寺は大正時代の火災で建物・文書等が燃えてしまった為に大正時代より前のことは資料がない為不明とのことであった。
千葉大系図において「上総国長柄郡金田郷に居館を有し」と記載され、寛政重修諸家譜においては「上総国長柄郡金田郷勝見の城に住し」と記載されている金田小太夫頼次の居館が金田郷にあった確証を得ることはできなかった。
長生村役場が作成した金田村の沿革を調べた資料によると、「金田の起源はいつ頃から起こったものかわからない。中古は長柄・埴生両郡の一の荘に属していた。(途中略)とにかく由緒の古い村であることはまちがいない」と記載されていた。
一の荘は荘園郡郷図では一宮荘のことと思われる。
金田郷から約5㎞南に上総広常の居城との説が有力な高藤山城があり、一宮荘は上総広常の所領であった可能性が高いのである。
千葉大系図でも上総権介常家の居城が上総長柄郡一宮柳沢城と記載されており、上総氏は常家・常晴・常澄・広常と代々一宮柳沢城を居城としてきたと考えられてきた。高藤山城が一宮柳沢城に該当すると考えるのが一般的である。
①金田郷は一宮荘に属しており上総広常の所領であったと思われる。
②金田郷には居館跡など金田頼次に繋がる旧跡や伝承などが地元には残っていない。
③金田頼次の兄弟は所領となった荘園の名前を名字にしており(印東・匝瑳・天羽など)、現在の木更津市の小櫃川河口に位置する金田保を所領としたことにより金田を名字としたと考えるのが妥当ではないだろうか。

千葉大系図に書かれている金田頼次が金田郷に居住したことについては懐疑的にならざるを得ない。。
金田頼次の嫡子金田康常が勝見城主となったことは千葉大系図にも書かれており、上総広常が謀殺された後にその無実が明らかになり、金田康常の所領に金田郷がなった可能性が高いと思われる。

 
   
金田郷の田園風景
 
     
   
神社の横に上総国長柄郡金田村と記されている
 
大宮南宮神社
 
     
   
金蔵寺
 
金蔵寺の建物は大正時代の火災で焼失しその後建て直された
 
     
   
歩道橋にも電柱にも長生村金田と表記されている
 
   
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